昭和40年05月12日 朝の御理解



 「先生、昨日は、もう大変なおかげを頂きまして、大変なおかげを頂きまして、大変なことをその見せて頂きましたんです」と、こういう訳なんですよ、「どんなことだったんですか」といったら、人の念というもの、「念の力祈りの力、もうものすごいもの、ああいう働きのあることを始めて見ました」というて。そのそれを目の当たりに見たと、こう言うわけなんですねえ、で椛目の御造営のことやら、なんかもう、一つみんながですねえ、祈りの力総念力ですねえ。
 いわゆる皆んなのが一つのことをです、一つの事を力を合わせて、念力をもってね。祈りの力をもって、成就するおかげを頂きたい、と言うう訳なんです。その人が、まあいうなら千里眼的な方なんですねえ、山伏だそうです。丁度、秋永先生のところの前でその大道で、いろんなあの説明をしながら、自分の念力を人に見せて、そして、お札を売られるというわけなのですね。相当大変な、やはり修行が出来た方。
 まだ、40近い、三十いくつ位のらしい人ですけどもね、とにかく一生懸命ですね、気合をかけて念じられるとですね、例えば、御札が、ここへ立つ、ねえ、これはもう種も仕掛けもないんです。やはり。この、祈り、祈りに祈ってない時に、この、紙でですね例えば石をこうすくう、こう紙じゃからならんですけれどね、こいこい、この紙に祈りを込めてからこの、石をこうやって持つことができるっち。
 気合もろともです、ね、その長年の山伏修行して、そういうまあ念力を得たんですねえ。例えばこの生きた木をですね、はあ枯れよ枯れよと言うとやっぱりその木が枯れる。そういうことは事実、確かにあることはあること。それをやっぱり目の当たりに見るとやっぱり、みんなが不思議を感ずるですね、だからこの祈りの力も大事なんですけれども、どうでしょうか、皆さんその祈っただけでお広前が建立された、ね。
 祈ってその例えば例えば奇跡をあらわしたところでです。そして、「その人がどういうような状態だったんですか」て、私がもう
  (5秒位、録音状態悪し)
 でその、御札を売ることに、自分の念力を言うなら売り物にしておられる訳なんですけれども、やはり念の薄いもの、いわば、信心の無い者は、それを、不思議なことじゃなあ、不思議なことじゃなあ、ああいう念力でもっと祈ってもらうなら、病気でも治る筈だという風にまあ、思うわけなんです。
 で「私が祈ったら12年間だけはきく」、けれど「12年過ぎるとその、その祈りがほどけてま利かんごとなる」って、だからこの御札一枚買えば12年間は良いと言う様なことだったらしいです。ね、大体ていうとああいうことが非常に好きな、好きち言うたらおかしいですけれど、ま自分もそういうその拝まれるのがお不動さまらしいですね。でそんなこと聞かせて頂いて、この祈りと言うことは。
 その例えば福岡の初代なんかこの「念力を持ってすることなら、もう吉木栄蔵の右に出るものはおるまい」ちいうて、その四神様が仰るくらいに念力の強い方だった。お広前にひょこひょこ鼠がやってくるですねえ、それを御結界からこうにらみ付けてから祈られる。そしたらその、鼠がです。不動縛りのように、なってしもうて動けんようになってしまう。しかし、祈力というものはそんなもんです。
 だから、皆さん御祈念をなさっておられと言うようなことでもです、やはりそういうものが、私どもには、そういう力はないにしても、それが、念が、ね。
   (数秒録音状態悪い)
 たまりたまり祈って祈っていけるそういう働きををなすことは、勿論のことですね。そこでその、お道の信心のことを思うのですね。「んんん」私、そのことを皆さん帰られた後に、ふっと、あのお礼申し上げるとき申し上げさせて頂いたら、神様から「自然念力」と、いうことを頂いたんですね。「自然念力」と、これは、私が、いつも皆さんにいっておることなんです。
 そういうような例えば祈りと言うことによってですたいね、生きたものを枯らしたり、まあ、悪く言うとですたい、人の命でも祈りによって祈り殺すことが出来るんです、ですから。だから、自白な念、人に恨まれると、もう一生懸命にある人から恨まれる、恨みの念というものが、こちらに来るのです。ですから、恨まれるようなことをしてはいけないことになる訳ですねえ。ま、あの人のおかげで助かった。
 あの人のおかげでと、そういうような念力をすると、反対の念が、働きがあるということが分かるですねえ。ね、私が、私が申しますことはそうじゃないです。天地の親神様が私共に向かってです、自然にさまざまのことが起きてくる。さまざまな難儀がある。暑い寒いが在るけれども、それといつも対決してです。ね、自然との対決によって、生まれてくるところの力、ね、
 自然に起きてくる事柄とです、いつも負けてばっかりおっては、こちらの力はいっちょん出りゃしません。御道の信心の素晴らしさはそこにあると思うんですよ。そこに本当の力を頂ける、この力は、人を例えば祈り殺すとか、ね、石を持つとかということには、ど、どちらにしましてもです、その祈りその祈りの力というものは、天地が自由になると言うような祈りになってくるわけなんです。ね、
 天地が自由になるというような、ね、皆さんそう言う意味合いにおいて、力をいただかにゃなりません。日日の中に腹の立つようなことが起こってくる。いらいらする問題もある。悲しいこともある。様々なのです。けれどその悲しいことやその腹の立つよな事柄をです。「生神金光大神様、生神金光大神様」と願い喜ぶ心一筋に、それを受け抜いてです、その腹の立ちよったのが消えて行き、悲しかったのが有難うなってくると、言うようなおかげを頂いた時こそ、私共は自然のそうした働き、そういうものと対決してそういう、いわば心の中に勝ち得たときなのです。
 そういう力が私共の中にきたわれてくる養われてくる、そこには、私共の真実の幸せが約束されておる。もう、その人の前には、困ったということがない。難儀なことがない。悲しいことがない。腹の立つことがない。ね、皆さん、そういうおかげじゃなかなんいけんのですよ。わたくしは、念力も大事だと思う。ね、御祈念をさせて、私共の場合なんか、ここに一時間なんぼといやりゃ、一生懸命祈ります。
 けどその祈るというとはです、そういう例えばそういう奇跡的な、それではなくてもっともっと奇跡なこともっともっと不思議なこと、きのう森尾の高山さんのところの、宅祭がございました。総代さん方皆揃うておかげ頂いて、御直会の席上ででしたでしょうか、堤さんが、高山さんに尋ねておられるんです。「お宅から頂いたその、榊がかれた」というわけなんですね、それで、またその鳥栖の植木市に行ったときに、榊を何本か買うてきて植えられたんです。
 ところがその枯れてしもうた訳なんです。「どげんして枯れるじゃろうか」と。「榊というやつはそげん枯れる筈はない筈ばってんね」「どうしたこっでしょうか」と言うわけなんです。そしたら誰かが「あのう植えちから水はやりよんなさるとじゃろか」ち、「それがやりよりませんじゃった」ち。「そんなら枯れるくさ」ち「へっへ」ね、移植をするんですから植えたら植えたなり、ほっぱらかしなんではやはり枯れます。
 それがほんとにね大地に根を下ろして、ね、自分で吸い上げる力が生れた時です。もう水をやらなくて良いののです。肥やしをやらなくてもいうならば、肥しも水分も自分の根から吸い上げる力というものがもうその、榊自体にあるのですから。だからその根がつがるまではお恵みの水はやらなんいかん。昨日御祈念の後にですある方が参ってきてから、「始めの間はようおかげ頂きよったばってんが、この頃はもうお願いすると反対のことばっかりおこってくる」。
 田主丸の小野先生ですもん、ああ皆さんご承知のように熱心なんです。毎日参って見える。ところがここにひとつ不思議なことがある。患者さんのこと、こと命というような時にお願いすると、夜であれ夜中であれ電話でお願いしても必ずおかげを頂くと。ところが子供が試験でございますけん「お父さんお願いしといてくれ」と言う。ね、そげんときにゃくさお願いしといてとちょっと「お父さんあんたにお願いしとったら、かえって悪かった」ち(笑い)言う。
 そう、そこんにきがいっちょん分かりませんち言うてから、一時間ぐらいあぁた昨日そんな話をしていましたんです。「それは、あなたの信心が段々おかげ頂いていきよる印だ」と。ギリギリのこと例えば、ほんなら子供たちの例えば、高校入学とかですねえ、中学でも久留米の中学に参りましたが、そういう特別な、特別なおかげを受けんならん時は、間違いなしにおかげ下さる。
 まえも、中学に行くときなんかは、もう、駄目だと、だから駄目だと通知があった。お願いにきましたところがね、ここんところに御大祭のときにあのゴザを敷くでしょ、お縁でしたから、その、ゴザをずうっと敷きよるところを頂きましたもん。そして、あれは、補う訳なんですね、「ね」、補充する訳なんですね。だから、これは、おかげ頂くよと私が、言いました。
 「お前ん前には座れんばってんが、ここには座れよ」、まあ、補給するくらい、通知が来るかもしれんといっておったら、それから翌々日「補給するけん入学が出来る」ち、知らせが。あのう、知らせが後からきたんです。今度の高校入学もそうでした「どこを選んだが良いでしょうか」ち、「明善高がよかろう」と、ところが明善高が出けんと困るから、あっちこっち受けてみた。
 「けど、もう、ちょっと明善高一つに決めときなさい」ち、ここも出来なかった、そこも出来なかったけれども、明善高だけはでけた。というように、ギリギリのとこだけおかげ受けておる。また、人こと命にかかわるという時には不思議におかげ頂く訳なんですねえ。そ代わり、お助けいただかねば、毎日あん手術でもですね絶対にメスはとらんというぐらいにある。
 ところがそのう、子供たちがもうお父さんの言うようにもう、信心もあてにゃならん、お願いしたらかえって、試験が悪かったて、そう言うようなことね、ね。はじめの間はようおかげ受けよったけれど、この頃は受けんようになったと言うようなことを良く聞くことです。これは始めの間はです、やはり移植したばっかりですから神様は、特別のお恵みの水をこう、与えてくださるのでしょうねえ。
 まあお恵みだけをおかげだとこう思っておる。自分の都合になることだけをおかげだとこう思っておる。ね、そして自分自身の信心は一つも育っては行かない。ね、三年にもなり、五年にもなり十年にもなったならです。もうお恵みの水は頂かなくても自分でです、お恵み以上のお恵みを大地から吸い上げる、水分も肥料も自分で吸い上げて、自分で大きな木にもなっていき華にもなっていきゃ、実りにも成って行くようなおかげを頂いていくような、信心が育たなければいけないということ。
 だから御祈念の稽古だけじゃいけないということになるんですよ。そりゃ皆さんでも、御祈念の稽古でもさ山にでも篭もって。一生懸命山伏修行でもなさりゃです、それは人は不思議とでも言うような力は、出来るかもしれません。ところがそれはですね、ただ目の前に不思議に感じる力だけなのです。もっともっと偉大なもっともっと大きな、不思議を不思議と分からせてもらわなければいけません。ね、
 それは私共がですね、天地自然の中に私共氏子一人ひとりの上に、対決を迫られることがある、もう辛抱がでけんと言うような、腹が立つことがあったり情けないことがあったり、ね。そういうときでも神様一筋にお縋りさせて頂いて、その問題と対決して行き、その腹の立つもの、例えば腹の立つ問題と対決させて頂いて心が真っ黒になった。心が真っ黒になった時ほど自分の心の中に信心の光を必要とするときである。と。
 その腹の立つことの問題をです、正体をようくよく眺めさせて頂きよったら、自分自身の心のほうが分かってきた。これじゃこういう問題が起きる筈だこういう難儀が起こってくるはずだと言うことになってくる。その難儀な問題を対決させてもらいそこのところの改まり。昨日は面白いです小野先生と、私とがこうやってお話し合いをしよったです。そしたらあの、前の晩の月次祭のときにお話しましたように、昨日一昨日でしたかねえ、あの忠臣蔵のお芝居があったんですよ。
 八段目ま一力茶屋のところあんときにその、由良之介がこう酔うたふりをしてから、奥に入ってまいりますときに、わざと刀を忘れて行く場面があります。それをあのう九太夫と、あのうなんですかねえ敵方の間者でありますあれは、お芝居でいうキャリア三枚目でやるところのですねえ、ほらもう仇を討つ気はないのだと、ね、侍でありながら刀を忘れていくと言う様なことをするからには、仇を討つ気はないだろうというて二人は話し合ってです、その刀を見てみようじゃないかという訳なんですねえ。
 ところがその中々抜けんのです、造りだけは立派だけれど。所がそのそれこそ今しがた言うように中身が、錆びておったという訳です。ね、侍の魂といわれる刀をです、こういうような状態では、もう由良之介仇を討つ気はないだろうというて、二人がその申します。でそこで二人がですねこの刀について、なぞなぞをしようという所があるんですね、だから由良之介の刀とかけて何と解く(笑い)と言う様なことが。
 それはあのう坂内でしたね、坂内とあの大野甲兵衛ですたいね。由良之介の刀とかけて何と解く、その何とかの赤子、赤子と解くとこういう訳なんですね、なぜかと。「とぎゃええ(笑いながら)砥ぎゃええ」ち言う。その事を頂くのですね、昨日は小野先生の話の中に砥ぎゃええ砥ぎゃええその片一方のその、まあなんていうでしょうかね、無邪気なことを言うておられる訳なんですから。神様それに答えて下さるわけなんでしょうね、そういう面白半分を言うて下さるんです。
 「小野先生、問題はあなたの心を研ぎゃええとですよ」と、磨くこと以外にないのですから。信心は例えば子供の試験が出来るとか、出けなかったとか、と言うて一喜一憂するようなものじゃありません。「信心というのは、自分の心の中から改まりに改まり、磨きに磨き、そこから味あわせて頂くところの、有り難き勿体なきというその心で、自然と対決していくことなのだ」と、しかもそれに勝っていく所にです。
 そのはむかって、はむかってと言う問題が有り難いということになってくる時です、その問題に勝ち抜いた時であり、自分の心の中に力がそう言う風にして鍛われていくのである。自分の心の中に腹の立つ問題がです、いつまでも解決しなかったり、そういう時にはです、その時こそ、神様が「研ぎゃええ、研ぎゃええ」ち言いよんなさる時だと悟らにゃいかんですね。「お前が磨く以外にはないのだ」と、ね、
 そこから生れてくる力、これは例えば念力といったようなものではありません。範囲の狭いものでは在りません。お互いがです確かに信心始めにおかげを頂いったようなおかげは、おかげの内容が変わってくる。けども始めの間は神様がです、ね、神の権威にかけてでもおかげを見せるとおっしゃるくらいですから、ね、ですから信心は出けんでもおかげは頂けるというのは、今信心の畑に植え込まれた氏子の根が付くように、神様が必要以上に、お恵みの水を与えて下さるわけなのです。
 だからそのお恵みの水だーけに酔うてです、「始めの間はよう色々お恵み頂きよったが」って言う、ね、信心が育って参りますときにその様なお恵みじゃない、もっともっと大きな御恵みの中にあるという事なんです。ね、そして自分で吸収していく自分で肥料を吸収していく水分を吸収して行く、そして是が愈々言わば降っても照ってもです雨が降らなくても、枯れんで済む様な大きな木に育って行くと言う事信心とは。
 ですから、わたくしは、改めて思うのです。なるほど成り行きを大事にしなければいけないなということ。成り行きと本気で対決していかなければいけないなということ。しかも、それが有難いという答えの出るところまで、私共はそのことを詮索していかなければ、いけないなあということ。そして、老うものはなにか、若い者は何かとあるものは、一切神愛あるのみであるというに結論が出てくるわけなんです。
 暑い事も寒い事も腹の立つ問題も、ね、皆んな私の心の中にです愈々力を与えて下さろうとする神様の働き、神の愛以外にはないという事なんです。そこに確立されるものが、不動の信念である。どういう事があってもああ、おかげだなあと言っておれる所の状態なのである。「それはもう腹を立てる事じゃないが、神様のご都合じゃ」、「お礼申し上げときゃ良か」というなら、言えるように段々なって来るわけなんです。
 だから皆さんは、そういう力を養のうていくころに、精進させてもらわないとですたい、自分の思うように成らなかったら、おかげではないような思い方、いわば幼稚な考え方、ね、そういうときにはいつもです、私は神の声を聞かにゃでけんとおもう、神様の声はね、あまりにも大き、あまりにも偉大ですから、私共があまり大きいから聞こえないのです。なんかちょっと不思議なことがあると、それですぐここ「不思議なこっちゃ」とこう思う、けれどももっともっと偉大な不思議があるのです。
 そのもっともっと大きな不思議を分からせてもらわなければいけません。そして大きな大きな神様の声をです。ね聞かにゃいけん。私は昨日森尾の高山さんのところでそのことを話したことでした。ね、田舎のことですから魚屋さんがあのマイクを、で、ずっとおらんで、さるきよった。ところが、そのマイクがあんまり大きすぎるもんじゃけんワンワン言うちから、かえって何ち言い御座るか分からん。
 選挙運動かなんかに来ござるとじゃかと思いよった、「ワーワー」そしたら、「魚はいらんか」ち、いいよんなさるとじゃった。(笑い)あんまり大きいから分からんとですたい。「ね」、だから天地の親神様のお声というのは、もっともっとあんくらいなもんじゃない、それこそ天地を揺り動かすようないうならば、阿蘇山の爆発ばしとっでしょうがああいう勢い、もっともっと大きな勢いで私共にいつもおらびかけて御座るんですけれども、自分の心の耳を持たんから聞こえんのです。ね、
 ところが、それを自分の心の中に小さく小さく頂いて、綿密に綿密に頂いてまいりますとです、それがすっきり聞こえて来る様になる。神の声を聞くことが出来る。そしていわば研ぎゃええ研ぎゃええと、言う様な声が聞こえて来るようになる時です、私共のこころのなかに、ああほんに人段じゃなかった神様の方をおらみよったけど、神様のほうじゃなかった、この心じゃおかげの頂けん筈だという声を聞かなければいけん。
 そして、とぐ以外にはないのだ。改まっていく以外にはないのだと。ね、そういうような心で、神様の声を聞いたりお姿を見たりすることが出来るのです。どうぞ皆さん力を受けにゃいけませんよ。ですから例えば御造営なら御造営ということでもです、なんとかその、念力をもってです、念力を持って御造営がならなければなりません。ね、けれども、それよりもっと、もっと大事なことはですね、
 神様が求めて御座る修行の様々な働きをです、その働きに打ち勝たして頂くところの、おかげを頂いて力を養って、ね、その養った力によって頂くところの御恵み。よっておかげを頂いていくというものでなからなければ、ほんな物じゃない。というて祈念力というものを馬鹿にするのじゃありません。祈念力も大事、ね、けれどもです例えば祈念力というものは、そのなんと申しますか、いまいうさっき申しますように人を祈り殺すといったようなことにも使えるものなんです。
 念力というものは。念力の強い人から祈られたらです。よっぽどこちらが有難くなっとかなければ、それを打ち消すことは、出来ません。ね、けれど自然念力ということには、それは、勝つことは出来ません。どんなに、悪の念をこちらに送られても、こちらがです。ね、ほんとに神様から頂くことによる御神徳なのです。御神徳の力をもってするならば、これは問題じゃないことなんですけれどねえ。
 ただ人の前ではです、ね、例えばこれがこうやって立つような、そのほんとに不思議な働きといったことだけにです、不思議を感じるような信心では、信心がもう、小さい小さい物になって行く。ね、金光様の御信者のどこまでも、自然念力でなからなければいけない。自然の事柄と対決して、そこから養われるところの力、ね、そういう力をもって、私共はお徳、お徳の力とちゃあ、大したことである。天地が自由になって下さる。人間幸せの一切のものが、そのお徳の力によって、集まってくる。
 そういうおかげを頂かなければいけないと思うですね。皆さんお分かりになったでしょうか。そういう今言うそう言う様な、秋永先生の奥さんが言うておられた、ね、そういう念力と言った様な事には、あんまり不思議を感じたり、その実はあんまり必要ないということ。そういうやつは例えばああいう、ああ限定されたある意味での修行でもすりゃ誰でも、出来る様になるという事。
 それだからというてからそれでその日の稼ぎに困る大道に出らなければいけないそん成る様な事ではいけないでしょうが、私共もこの間大変な修行を致しました。大概に職がないと言った様な事がありましたけれども、ようはそんな念力というものは、誰でもじゃなくても、ここに引き寄せて下さるところの働きになっておる。一切が幸せの元というものを、天地が私のために自由になって下さるような、働きになってくるものでなからなければ、実をいうたら本当のものじゃない。真の信心というのではないというのですね。
   おかげ頂きました。